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−その批判と教育労働のあり方について− 2002年7月6日 目次 はじめに 本文 はじめに 現実には学校評価は不可避の状況ですが、
という観点に立って県教委の「学校の自己点検・自己評価」を批判していくことが大切です。 宮城高教組が学校評価について職場討議資料を出していますが(2002年5月20日付「宮城県教育新聞」号外)、大阪で行われている計量的な評価方法を良い例として紹介している点で、大きな誤りをおかしています。学校が持っている文化は多様であって、そこには開放系のシステムも教育活動を評価し評価される関係も従来からあるのです。そこを発展させていくべきで、それこそが豊かな学校文化の形成につながるのだと思います。 1.学校の自己点検・自己評価って何? 宮城県教委の示したモデルでは、「学校経営、教育活動、教育成果を対象に評価するもので、‥‥学校の教職員が自ら行う内部評価を特に『学校の自己点検・自己評価』といいますが‥‥」と述べ、対象と評価主体について明らかにしています。しかし「生徒による授業評価や保護者や地域からの外部評価を取り入れて行うなどの学校評価に発展させることができる」とし、最終的には評価主体の対象を生徒、保護者、地域に拡大していくことを明らかにしています。 評価対象については「絞り込みが必要」としつつ、「例えば」としながら「学校経営」「教育活動」「教育成果」の三領域を具体的に細分化し、項目別に列記しています。
また「基本評価領域(項目)をどう設定するか」という問いを立て、「各校の特色ある学校づくり‥‥に応じて設定します」としていることから、学校のミニマム・エッセンシャル(基本的要素)を評価するというよりも、県教委の教育政策がどれほど現場で実現されているかをチェックするものであるといえます。 2.評価する・評価される関係について 自己点検・自己評価が「学校を開く」? 項目の総和が全体ではない 教育活動は人間にとって最も基本的な営みです。特に近年は教育活動を現象総体として見ていこうとする立場が教育学の中でも一般的になりつつあります。つまり項目の総和が教育活動全体にはならないのです。現象の全体性を見据えていこうとする知を「臨床知」もしくは「実践知」といいますが、しかしこのような知を機械論的に説明することはできないのです。 ですから項目ごとに教育活動全体を細分化して計量的評価していこうとする態度は、生き生きした人間と人間の関係の中で生成していくダイナミックな教育活動を衰えさせることになります。 凍れる関係 また精神科医の野田正彰氏は「標準化された項目で評価された人は、自分と他者との関係をその項目の評価法によって見るようになり、評価項目によってしか見なくなり、評価の標準化はそれ自体で展開して行き、さらなる標準化へ進む。そこでは人と人との関係性、教育の持つ全体性や柔らかさが失われ、標準化による評価が全体性に取って替わる」と述べ、「関係が凍りつく」と表現しています。(「させられる教育-思考途絶する教師たち-」岩波書店2002) 3.普通の関係の中で評価しよう 今までの教育活動でなぜいけないの? 授業をやっていて生徒から注文されることがあります。「わかりづらい」「もっと板書を丁寧に」「ここをもっと知りたい」。授業のなかで教員は常に生徒に対して評価されるし、その評価を受けて常に授業内容を変化させているのです。 父母教師会の総会で教師たちは学校の教育目標を説明しているし、教育成果についても同じように話しています。学級懇談で保護者から「ここをこうしてほしい」というご意見をいただくこともあると思います。最近は学校説明会を開催して、中学生やその保護者、企業や大学関係者、地域の方々が参加し意見交換をする機会を設けている学校もあります。 また生徒総会でも生徒たちは教職員側に要望などという形でいろいろな決議をします。これもある意味では生徒たちの評価とも言えます。 つまり今までの教育諸活動の中で充分に評価する・評価される関係というものがあって、その都度学校側は誠実に説明をしてきているし、応答責任を果たしているのです。そして各校は年度末には反省会を行っているはずです。その中で、年度始めに立てた目標について評価を行って、次年度に改善していくべき点があれば行動計画が立てられるわけです。そしてこういった経過は何らかの形(職員会議事録、生徒会雑誌、学校新聞、父母教師会報など)でまとめられ、公開されています。 あるものを充実させよう 県内のある県立高校では、「生徒総会で決議しても結局職員会議で否決されてしまって要望が実現できない」「直接、先生方と話がしたい」という生徒たちの意見から、生徒代表と教職員の代表が公開の場でデスカッションをする試みが行われています。ここで出される生徒側の意見は学校評価でもあるわけです。しかもこの話し合いは生身の人間同士のコミュニケーションの中で行われているということです。そして教師も生徒も「自分たちの学校をよくしたい」という基本的な一致点をもってこの話し合いを行っているそうです。 この実践例は特別なものではありません。普通のコミュニケーションの延長で行われているものです。だからこの話し合いは重要な意味を持つのです。しかしここに項目と数字と文書が入り込んだら、忽ちのうちに「凍れる関係」になってしまうでしょう。 学校の培ってきた文化は豊かであり多様であり普遍的なものです。項目と文書という不自然な媒体によって生身の人間が行っている教育活動を評価するのではなく、今ある学校の中の自然な人間関係の中で、教育活動を振り返り、問題があれば改変していくという「反省的思考」の実践を行っていくべきでしょう。 直接的な討論の中から生み出されるものを大切にしよう またこの評価の方法はいわゆるアンケートです。アンケートは各個人の個別的な仮の意見を傾向として統計的に測るには便利ですが、ここで現れている多数意見が必ずしも正しい意見ではありません。意見をお互い表明して議論をすることによって初めて、個別的な仮の意見は公共性を獲得して、公論の意見として真なる結論に導かれるのです。 アンケート型の評価モデルは、一つ一つの意見がコミュニケーションのネットワークを経ることなく、個別的に累積したものを全体なる意見としている点で問題です。お互い意見を表明した後は、直接顔を見合って討論して結論を導き出すことが重要なのです。ですから学校の中に従来からある議論のシステムと保護者・生徒の参加システムを充実させていくことが大切なのです。 4.教員評価につながる学校評価 機械論的項目別把握で教育活動を記述する無謀さ 学校評価はその「学校経営」に責任を持って参加している教員への評価にもつながっていくものです。この評価の仕方も「項目主義」と「計量主義」、「文書主義」によるものです。先行実施県の状況を見ますと、必ずしも生徒や保護者から高い評価を受けている教員がこの評価で高い得点をとっている訳でもありません。そして評価項目の中には私生活の領域まで踏み込んで評価している内容もあります(※1)。
「京都府のある小学校校長が使う授業観察表」(資料参照)に掲げられている項目の全体的な印象からすると、単なる技術主義的項目がならびテーラーシステムの教育版のようで、知的な要素が感じられません。そしてこのような項目がしっかりやられている授業がよい授業ということなのでしょうが、このような授業では生徒=教師の関係が不自然で非対称な関係にされてしまうのではないでしょうか。日常的な知・情・意の中で、その瞬間の状況に組み込まれながら、授業は創造されていくのです(※2)。定型句の雛型で授業を語ってはならないのです。そしてこの幼稚な項目で絶えず授業などが監視されると思うと、気持ちが滅入るどころか、気が変になってしまいそうです。
「民間は厳しい」という言説の虚構 「教師は甘えるな、民間はもっと厳しい」という指摘があるのですが、直接的なコミュニケーションを無視して、仕事をしている傍で上司がペーパーを持ってむつむつとチェックしている職場って、民間企業では当たり前の状況なのでしょうか? 違いますね。「民間は厳しい」という常套句を使って教員の管理強化を正当化させることは、思考停止、思考途絶の典型例です。 「教員は金で動く」か? 教員も当然評価されるべき存在ですが、それは普通の関係の中で評価され、振り返り、自身の力で足りない部分を補い研鑚していくべきものだと思います。また教員の仕事には「精神的報酬」の部分が多く、項目と文書で評価する手法は、教員の活動全体を細切れにして分裂させ、意欲や創造性を喪失させてしまいます。そしてこの評価が昇進と賃金に結びつくのです。お金が動機付けとなる教育活動とは何なのでしょう。 教職員組合が賃金アップを要求するのは自らの生活の防衛のためで、同僚を押しのけて優秀教員になって表彰されて賃金アップに努力するのとは全く違う次元です。 「反省的実践家」の仕事は項目で細分化できない 教員は自らの枠を超えて、未知の領域に対して教育実践を行うことがあります。例えば節食障害の生徒がいたとしたら、本を読んだり学校に行ったりして専門的知識をしっかり身につけるまではその子と接触はしない、ということはないと思います。その子といろいろな形で交流を持ちながら、同時に学習を進めていくはずです。これは学問的知識がないものが未知の領域に踏み込んでいくということですが、どうして教員は未知の領域に踏み込んで教育実践することが可能なのでしょうか。 これは教職における専門性が知の体系を身につけている権威性とはほど遠く、むしろプラグマティストのいう「反省的実践家」(D.ショーン)、つまり生徒との相互交流の中から相互成長を目指す者、ということが教職の専門性として要求されているからです。また自分の枠(ボーダー)を越えて公共的空間で教育実践を行う「公共的知識人」(H.ジルー)であるともいえます。 このような「反省的実践家」・「公共的知識人」の専門性とは、生徒や保護者、同僚との「探求的共同体」(J.デューイ)の中で構成されていくものです。ですから権力的な権威主義からは最も遠い存在です。おろかな項目をつくり抑圧的かつ権力的に教員の質を評価するのであれば、教育の内容はますます貧困なものになっていくでしょう。同時に、教授=学習過程で教員が持っている権力性も、「反省的実践家」にはそれを相対化していくことが当然のこととして望まれるわけです。 (資料)京都府のある小学校校長が使う授業観察表 |